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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』

03 08, 2021
2021年・製作=カラー
制作=スタジオカラー 配給=東宝、東映、カラー
企画・原作・脚本=庵野秀明
総作画監督=錦織敦史
作画監督=井関修一、浅野直之、田中将賀、新井浩一
メカ作画監督=金世俊
美術監督=串田達也(でほぎゃらりー)
監督=鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏
総監督=庵野秀明
声の出演=緒方恵美、坂本真綾、宮村優子、林原めぐみ、三石琴乃、立木文彦 ほか

参考:http://webneo.org/archives/26430(2014年)

まさか7年越しで上記記事の続きを書く気になるとは思いもよらなかったですが、作品レビューを書くのも7年ぶり。
もちろん「樋口真嗣を媒介とした東宝特撮との関係性(特に『さよならジュピター』(1984))」などいくらでも思いつく気がしますが、
どこまでいっても言葉遊びになる気がするので、7年前の前掲記事で書いた「世界の行方の物語」という点にポイントを絞って。たぶん短いです。
パンフレットを読まずに書いているので事実誤認などあるかもしれません、ご容赦ください。

14年という年月を飛ばした意味はあったと感じさせたのは前半パートだ。
「世界の行方」には時間的な広がりのみならず空間的な広がりもあった。第3村という「見たことのない空間」で「見たことのない(あるいは見たことがあるはずだが、の人々)人々」との交流が描かれる。
まさに「私の知らない人々」との関係性を丹念に(少し冗長と感じられるまでに)描いて、そして綾波レイの消滅とヴンダーへの搭乗が描かれる前半。

いわゆる「碇シンジ」の物語はこれにて落着だ。前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)で描かれた(≒描かれなかった)綾波との関係性も、アスカとの関係性もこれにて落着する。
(厄介なのがマヤとの関係性の構築だが、これは色々な方が言及するし鶴巻監督が絡みかなりややこしくなると思うので割愛。)
何を言う、後半には父である碇ゲンドウとの重要な物語があるではないか、という反論もあろうが個人的にはあくまであの一連のシーケンスは「碇ゲンドウの物語」でしかなく、シンジとの関係性の物語ではない。

後半に描かれるのはたった一つ、「世界の行方の物語」である。
そこにシンジは積極的に介入しない。最も重要な場面でついに介入をするがそれはあくまで「彼個人にとって重要」だからではなく「世界の行方」に対して重要であるからだ。

見逃してはならないのが『惑星大戦争』(1977)テーマ曲(作曲:津島利章)である。『シン・ゴジラ』(2016)にて顕著だったが、近年の庵野監督作品では「鷺巣詩郎以外が作曲した曲」がライトモチーフとして使用されるとき、作品の構造自体に大きな転換が起きる。
『シン・ゴジラ』においては「宇宙大戦争マーチ」(作曲:伊福部昭)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)においては「YAMASHITA」(作曲:井上堯之)「翼をください」(作曲:村井邦彦)「今日の日はさようなら」(作曲:金子詔一)である。

そういった意味では、ほぼ旧作6話までをなぞった『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)や今となってはその14年の空白すら重要な作品である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では大きな構造の転換はなかったということになる。
(『シン・ゴジラ』については多量の伊福部楽曲が使用されているのでもう少々複雑な気がする。さらに言えば鷺巣楽曲でも『ふしぎの海のナディア』(1990-1991)など他作品にて使用された楽曲も別の意味合いを持つかもしれない)

改めて今回の『惑星大戦争』テーマ曲だ。厳密に言えば作品構造の転換、つまり「碇シンジの物語」から「世界の行方の物語」への転換はシンジがヴンダーに乗り込む決意を口にする時点で成されているが、それでも「敵」がより明確になり「世界の行方」を巡る戦いの始まりを告げるタイミングでこの楽曲が流れたのは重要だ。

また、庵野が鷺巣以外の作曲家の楽曲をライトモチーフとして用いるときに、もう一点特徴的なのは
「元作品でライトモチーフとして使用された際の楽曲の意味合いさえ引用する」点である。楽曲を逆説的に使うことはまずない。つまり今回のヴンダー戦における楽曲は、今まで使用されてきた歌謡曲ではなく東宝特撮が描いた「世界の行方」を巡る戦いのテーマでなければならなかったのだろう。
『さよならジュピター』(1984)主題歌である「VOYAGER〜日付のない墓標」(作詞・作曲:松任谷由実)については言わずもがなだ。

『エヴァンゲリオン』という作品群は26年という長丁場を経て遂に完結した。
そしてそれは内省的な「自己という内なる宇宙」の物語としてではなく「この世界の(≒宇宙の)行方の物語」の帰結を見せる、という形を以てだ。

P.S.途中まで書きかけてまとまらなかったので本稿には触れなかったが使用された楽曲がタイトルバック曲ではなく「激突!轟天対大魔艦」であるのも興味深い。

『思い出のマーニー』

09 09, 2014
2014年・製作=スタジオジブリ、日本テレビ、電通、博報堂DYMP、ディズニー、三菱商事、東宝、KDDI
制作=スタジオジブリ 配給=東宝
原作=ジョージ・G・ロビンソン
脚本=丹羽圭子、安藤雅司、米林宏昌
作画監督=安藤雅司(作画監督補佐=山下明彦、稲村武志)
美術監督=種田陽平
プロデューサー=西村義明
監督=米林宏昌
声の出演=高月彩良、有村架純、松嶋菜々子、黒木瞳 ほか

 
 実は最初に観たのは1ヶ月以上前だ。そのときに「これは良い!」と思ったのだがどう書いたものやら悩ましく一ヶ月間悶々と考えながら放置していた。ようやく二回目を観て少し考えがまとまってきたので書いてみる。

 まず言わなければならないのは、近年のスタジオジブリ作品に対するフラストレーションが溜まっていたことだ。特に宮崎駿作品は近藤喜文、安藤雅司という、二人の「批判的な眼、あるいは手」を失って具体性を失っていった。作品は猛烈な勢いで抽象化の一途をたどっていった。美術や作画は確かに常に高水準かつ高密度だ。しかしバックグラウンドを欠いた、空虚な高水準作品は、宮崎駿という単一の才能をよりどころとしており、限界と破綻は見えていた。

 その問題が露呈したのが昨年の『風立ちぬ』だろう。大正年間から昭和初期を舞台としながらも、あれを日本だと僕たちは認識できるのか。菜穂子の「結核」の描写に果たして説得力はあったのか。宮崎駿(と作画監督の高坂希太郎)は、結局は「ジブリ的作風」に絡め取られ、「『ファンタジー』にしか見えない『実話ベース』の『ジブリアニメ』」という至極珍妙な作品に仕上がってしまった。

 我ながら非常に回りくどい。間を飛ばして結論だけ書こう。『風立ちぬ』は従来の手法・方法論で作ってはいけない映画だったのだ。大正年間から昭和初期を描くには「ジブリ的なルック(デザイン・作画・背景・特殊効果など多岐に及ぶ)」ではいけなかったのだ。ファンタジーへ逃げることなく真正面から、あの近藤喜文が『火垂るの墓』で行ったような正攻法で突破すべきだったのだ。(出来上がった作品がダメだと言っているわけではない)宮崎駿は「作品に合った作風」を見失っているように感じる。

 ようやく本題。翻って本作だが、欠点を言えばきりがない。種田陽平の美術はフィッティングを考えずむやみやたらに密度が上がってしまっておりセル部分との乖離を生み出しており(おまけに最初に杏奈が洋館に向かって歩く場面では、付けPANが上手く噛み合っていないという悲劇まで起きている)、前作『借りぐらしのアリエッティ』でも見られた、米林監督の生真面目すぎて力の加減を知らぬ丁寧すぎる作劇は最終盤になって冗長に感じるし(これと比べると『風立ちぬ』の飛躍は見事としか言いようがない)、それに付随して、無闇に増えたキャラクターを持てあまし気味だ。
 
 しかしそれでもただ一点を以て自分はこの映画を素晴らしいと思った。この映画は具体性にあふれているのだ。冒頭、札幌から釧路まで伸びる線路をバックにタイトルが出る。この映画には釧路湿原の、それも叔母一家の周辺しか登場しない。しかしその空間の限定がこの空間の具体性を徹底的に底上げしてみせた。分かりやすい話をすれば、叔母の家からマーニーの家までの位置関係を我々は知っている。どこで物語が展開されているかを手に取るように理解が出来る。空間を観客が認知できる、というのはつまり、説明的描写を削ることが出来る。それなりに複雑な物語構造を持つ本作において、空間説明に観客の関心が行かず、よどみのない物語への没入が出来る意味は大きい。

 作画についても従来のジブリ映画との徹底的な差別化を目指し、記号化を避けた具体描写を図っている。安藤のキャラクターデザインはキャラクター一人一人が「やわらかい身体」であることを十分に感じさせ、実写に漸近し過ぎることもない見事なものだ(特に眼球への意識、奥歯の描き方)。作画自体も従来のジブリ的な(Aプロ的な)描写とは異なっている。特に沖浦啓之と本田雄パートはリアル系アニメーターの面目躍如といえるだろう。残念ながら全てに手が行き届いたわけではなく、従来的なエフェクト作画などが見られてしまっているが、作画監督としての安藤の最大の業績はおそらく影付けだ。立体に見せるための影付けではなく明確に光源(太陽、月、電灯...etc)を意識している。光源がわかる、すなわち時間が予想できるということだ。『風立ちぬ』は果たしてどのくらいの年月を経る物語なのか、『ハウル』はいつ頃の季節の物語なのか。本作では空間と時間、この両軸が見事に具体的に、克明に描写されている。
 
 押井守は『イノセンス創作ノート』(2004)で「街という名の街はなくイヌという名の犬はいない」と書いている。実写映画ではかなり制約される記号的表現がアニメでは自由に使え、かつ一種身勝手にいい加減に用いられてきたことに対する皮肉だ。本作は文字通りに「地に足のついた」作品だ。その作品に「飛翔」も「ファンタジー」も不似合いだ。

スーパーハイクオリティ時代劇再び「鬼神伝」

04 30, 2011
監督:川崎博嗣
キャラクターデザイン:西尾鉄也 サブキャラクターデザイン:外丸達也
作画監督:外丸達也、橋本晋治
声の出演:小野賢章、石原さとみ、中村獅童 他
アニメーション制作:スタジオぴえろ

謎の魔物に襲われ、1200年前の平安時代にタイムスリップしてしまった少年が、人間と鬼の壮絶な戦いに巻き込まれていく様を描いた歴史冒険アニメ。

こういう物語にありがちな、「主人公はひ弱で優柔不断な男の子」というプロット。そして当初自分に関与してきて、かつ割りと好印象を主人公に与える人物、その価値観を完全にひっくり返す後半。何より、選ばれた二者択一の道のどちらをも選ばず最も辛いが最も良い第三の道を選びそれを成し遂げる。

こうして羅列してみると本当にありがちな、かつ単純なプロットの連続だと思います。しかし、このありがちなプロットを一つの映画として筋を通し、当たり前のことを当たり前に行うことの難しさ。
特に「第三の道」の問題では己が選んだ道であるだけに最も困難な道である必要があり、かつそれが観客にはっきり伝わる形で表さなければならない。そしてその解決法は「デウス・エクス・マキナ」的要素を上手く排しながら納得の行く形で主人公が己の力を元に成し遂げなければならない。

んで本作では(ネタバレになるけど)
二者択一の道→鬼に付くか、貴族に付くか
第三の道→和平
困難→源雲、そしてその圧倒的妖術
解決法→八岐大蛇の復活
となっている。正直言ってここまでこのプロットを上手く扱えている作品ってそうそうないと思う。やはり力の解放から琵琶湖に立つ巨大な水柱、そして天から出現する水の神・八岐大蛇の迫力は凄い。このカタルシスは近年のアニメ映画ではなかなか味わえない。

舞台が平安時代のアニメーション映画も極めて稀なんじゃないだろうか。現在僕が時代劇アニメーションの中でも最高傑作だと信じる「ストレンヂア-無皇刃譚-」は戦国時代半ばに時代設定されている。というか「もののけ姫」も「戦国BASARA」もみな戦国時代に設定がされており、他の時代の作品は殆ど見当たらない。そういった意味でも非常に稀なアニメで面白かった。

作画の話を最後にちょこっとすると、大平晋也さんが参加されているかなー、とか思いながら見ていたんだけど橋本晋治さんが作監に入っていてビックリ。作画監督めちゃくちゃ久し振りだよね。
あと見てる最中に、金子秀一さん、橋本敬史さん、伊藤秀次さんの参加は分かったのが嬉しかった。ただ柿田英樹さんと村木靖さんいると思ったけどいなかったんだよなあ、蜘蛛に石火矢みたいなの打つとこの爆発、それ臭いと思ったんだけど。
山下宏幸さんは四天王が二対二で戦うとこじゃないかな、ブラーの使い方が「NARUTO」と一緒だった。

ともかく、多少キャラクターデザインにクセはあるけれど、単純かつカタルシスあふれる物語をハイクオリティなアニメーションで拝めるなかなか良い作品でございました。

P.S.どうでもよいですが、初日に映画見に行ったの初めてです。
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