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『星の息子』

11 17, 2012
坂手洋二:作・演出
出演:渡辺美佐子、円城寺あや、中山マリ ほか

僕は演劇というものに素養がない。つかこうへいも井上ひさしも生で見たことがない。大学の大先輩に当たる鈴木忠志も見たことがない。せいぜい平田オリザの『ソウル市民』を見たことがあるくらいだ。いくら映像系の学生といってもコース自体は「演劇映像」なのだから現状は情けないと思いつつ今に至っている。たまたま授業で紹介されたので今回見に行った次第である。

今回の『星の息子』は非常にとがった作品だと感じた。沖縄でオスプレイが使用する予定のヘリパッド建設を巡って沖縄の市民たち、そしてそこに息子の行方を追ってきた介助師二人と要介助者二人が加わり、反対運動の一環として座り込みを行う。

前半は沖縄が出てこなくて正直面食らった。最初は東京の渡辺美佐子の事務所、そして東北の津波で何もなくなった地区、次に官邸前へと視点が移っていく。マクガフィンとして「秋山聖児」が登場し、彼がそれらの場所をつなぐ一つの「線」として存在している。東北で何かを必死になそうという人々と「二代目・秋山聖児」、そして官邸前でデモをしつつもどこか絶望している「三代目・秋山聖児」。官邸前の描写がどこかしら冷めたものを見せてしまっているのは、本編でも語られたようにそこが今アクチュアルな問題として屹立している「最前線」とは程遠いからだろう。原発の問題も普天間の問題も津波被害の問題も官邸前で起きているわけではない。そこで視点はいよいよ最前線たる「沖縄」へと移っていくのだ。

しかし、沖縄の問題も官邸前と同様の問題を抱えている。普天間包囲を「次がある」と無理やり納得させることで解いてしまった市民たち。その「次」がどこにあるかを見出せず、現実に抗議活動への参加者も大幅に数を減らしてヘリパッド一基は現実に完成を許してしまっている。さらにそこにやってきた二人の「大和んちゅ」の登場は事態をマクロな方向からミクロな方向へと転換させる。新城家の複雑な経済事情、出産に怖れを抱く妊婦、そして次第に実体を表すようで一向に像を結ばない「秋山聖児」。
そして、遂に「やぐら」が作られる。そこからは怒涛の展開だ。オスプレイの離着陸・立てこもり・「4代目秋山聖児」の登場・普天間基地再封鎖突入・訓練開始・強制排除、といったことが同時多発的に展開し、そしてそれらマクロな事象を「秋山聖児」というミクロな事象が飲み込んだときに事態は大きく変化していく。彼の正体が明らかになったときに物語はその最高潮を迎えてフィナーレとなる。

ざっと自分でこの劇を捉えなおせばおおよそ上記のようになる。「垂直に屹立する世界」や「やぐら」「オスプレイ」などとにかく「タテ」の関係を多くの場面で見出したが、これはそのまま日米の関係にも沖縄での関係にも置き換えられる。また、ミクロな事象とマクロな事象がどこまで行っても一つの像を結ばない、というのもリアルだと感じた。やはり、音の重なり、という要素はまさに演劇の身体性という特徴を最大限に利用しているだろうな、と感じた。やぐらの独特の不安定さも同様。

と、褒めてばかりだがもちろん不満もある。まずラスト。普天間基地の無力化に成功するがやはりこれは嘘だ。嘘をつくならばもう少し綿密にやってほしかった(演劇における抽象性は映画の人である自分にはうらやましくもあるが)。希望を持ちたいのは十二分に分かるのだが。
そして自分が個人的にあまり気に食わないのは、結局旧セクト系の活動家が中心となってしまっていることだ。これはセクトや旧共産党系がどうの、と言う問題というよりも60~70年代の闘争の記憶と今回の抗議活動が一つの線として結びついてしまう、ということに問題がある。やはり「オウム」によって日本の戦後は分断され「震災・津波・フクシマ」によって再分断されたのだ。個人的にはそう思う。
あとは前半の一種ミステリー的展開は個々の場面自体はそれなりに良いのだがやはり薄い。時間も密度も足りないと感じてしまった。

しかし、全体としてみればこれだけアクチュアルで「劇的」な問題をよくぞ切り取った、と思った。映画になぜそれが出来ないのか、と思わず考えてしまう、特に若松孝二が死んだ今は。
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