『リアル 完全なる首長竜の日』
06 09, 2013
2013年・製作=「リアル〜完全なる首長竜の日〜」製作委員会(TBSテレビ、東宝、ツインズジャパン など)
制作プロダクション=ツインズジャパン 配給=東宝
原作=乾禄郎
脚本=田中幸子、黒沢清
監督=黒沢清
出演=佐藤健、綾瀬はるか、中谷美紀、小泉今日子、オダギリジョー、染谷将太、松重豊 ほか
黒沢清の劇場用長篇では『トウキョウソナタ』以来5年ぶりの新作にして、早くも賛否両論の本作。ここ数週間なんとなく黒沢清作品を観ていたが(『CURE』『降霊』『回路』『アカルイミライ』『スウィートホーム』など)、総決算的な作品であるという印象がかなり強い。わりと大作仕様であるがなんとなくクローネンバーグの『イグジステンズ』を思い出した。
今回この映画で気になったのは「映画の現実感」である。過去にも黒沢清は『CURE』などで映画の連続性、いわゆる「モンタージュ」に揺さぶりをかけているが、今回は題名通り「リアル」というアンドレ・バザンの主張(「映画言語の進化」参照)を少し思い出させるような主題を投げかけてきた。
まず映画の前半でセンシングによってもたらされる「仮想現実」のような世界における、ある概念が提示される。すなわち「フィロソフィカル・ゾンビ」だ。もちろん哲学における「哲学的ゾンビ」とパラフレーズできるものでは全くない。しかし、この映画における重要な主題と思われるのでひとまず触れておく。
彼らは明らかに普通の人間(というものが仮想現実世界に存在するかはともかくとして)とは異なるものの少なくとも動いている。
では「動いている」とはなにか。ここでクリスチャン・メッツの「映画における現実感について」(1965)を少し参照しよう。非常に乱暴な解釈ではあるが、要するにメッツは映画の現実性(ことに「演劇」や「写真」と比べたそれ)は「二つの空間の分離」すなわち観客がスクリーンと区切られていること、そしてその、それによって十分な強度を持てない現実感のおかげで、我々の目は物語世界(=“ディエジェーズ”)へと向けられ、そこでの「運動」こそは抽象化されがたい現実感を持っており、映画の現実感の源泉とはすなわち「運動」である、と述べている。
すなわち、「動いている」ことは紛れもなく「現実的」なのである。これが映画の前半における世界が現実である、すなわち「リアル」である最大の依り所どころは、すべてが合理的に運動していることだ。
しかし、中盤からいよいよ終盤へ、という時点で突如揺さぶりがかけられる。まず綾瀬はるかが突如運動を止める(そして消える)。センシング終了後のセンシング・ルームの研究者たちも停止している、まるで時が止まったかのように(フドルフ・アルンハイムは映画の現実感は、運動によってもたらされる「時間」にあると述べている)。我々が「リアル」の拠り所としたものが崩れ去り、ここで初めて真実が我々に現前する。すなわちこの世界は「リアル」ではない、と。
もっぱらに賛否両論の的となるのはここからだろう。確かに心肺停止したはずの佐藤健は蘇生し、さらにモリオの権化たる首長竜(この首長竜のクオリティも賛否両論だ)は特に必然性もなく暴れ回り、必然性もなくおとなしくなるなど、かなり強引な展開だ。しかし、たとえ物語ではもう一段階上の「リアル」に到達したからといって、ほんとうにそれは我々が生きる現実と地続きの「リアル」なのだろうか?もちろんスクリーンを我々が隔てられている以上、その答えは「否」なのだが、それにしてもなぜにこのような「ご都合主義」とも取られかねない展開を許したのか。
ここで改めて「フィロソフィカル・ゾンビ」を思い出してみよう。いや「哲学的ゾンビ」を思い出してほしい。哲学的ゾンビは外面上は我々とまったく見分けがつかないどころか細胞レベルまで分解しても心(≒クオリア)を持っていないことを証明できない、しかし「クオリア」を持たない存在のことである。翻って映画の登場人物とは一体何者であろうか。ここで『nobody』誌のインタビューで黒沢清自身が興味深いことを言っているので少し長くなるが引用しよう。
さて、言いたいことをほぼ言い当てられてしまった感があるが、すなわち「映画は映画である」のだ。決して現実の写しなどではない(ドキュメンタリー映画だってそうである)。そして映画の登場人物とは、「俳優そのものの内面」と「俳優が演じる登場人物の内面という」二重の意味での内面を決して我々は見ることのできない存在だ。いや、そもそも登場人物には「内面」などないのかもしれない。
つまるところ、多くの観客が語る「映画の現実感」などというものは非常にあいまいであり、身体を持って躍動する佐藤健も綾瀬はるかも、3DCGによって作られ「チャチ」=現実感に乏しいと指摘を受ける首長竜も押し並べて我々の前では等しく内面の見えない「フィロソフィカル・ゾンビ」に過ぎないのだ。最近(どころでなくここ数十年ずっと)しきりに叫ばれる「リアリティ」に黒沢清は痛烈な一撃を加えたのだ。もちろん物語展開には僕自身も首肯できない部分もあり、声高に「傑作!」と手放しでは誉められない問題作だ。しかしながら、閉塞的といわれて久しい日本映画の展望を窺ううえでも必見である。
P.S.少しばかり蛇足かもしれないが多くの拠り所を見失ったが、もう一度メッツの主張を思い出そう。「映画は運動だ」と。これで少しは救われませんか?(笑)
制作プロダクション=ツインズジャパン 配給=東宝
原作=乾禄郎
脚本=田中幸子、黒沢清
監督=黒沢清
出演=佐藤健、綾瀬はるか、中谷美紀、小泉今日子、オダギリジョー、染谷将太、松重豊 ほか
黒沢清の劇場用長篇では『トウキョウソナタ』以来5年ぶりの新作にして、早くも賛否両論の本作。ここ数週間なんとなく黒沢清作品を観ていたが(『CURE』『降霊』『回路』『アカルイミライ』『スウィートホーム』など)、総決算的な作品であるという印象がかなり強い。わりと大作仕様であるがなんとなくクローネンバーグの『イグジステンズ』を思い出した。
今回この映画で気になったのは「映画の現実感」である。過去にも黒沢清は『CURE』などで映画の連続性、いわゆる「モンタージュ」に揺さぶりをかけているが、今回は題名通り「リアル」というアンドレ・バザンの主張(「映画言語の進化」参照)を少し思い出させるような主題を投げかけてきた。
まず映画の前半でセンシングによってもたらされる「仮想現実」のような世界における、ある概念が提示される。すなわち「フィロソフィカル・ゾンビ」だ。もちろん哲学における「哲学的ゾンビ」とパラフレーズできるものでは全くない。しかし、この映画における重要な主題と思われるのでひとまず触れておく。
彼らは明らかに普通の人間(というものが仮想現実世界に存在するかはともかくとして)とは異なるものの少なくとも動いている。
では「動いている」とはなにか。ここでクリスチャン・メッツの「映画における現実感について」(1965)を少し参照しよう。非常に乱暴な解釈ではあるが、要するにメッツは映画の現実性(ことに「演劇」や「写真」と比べたそれ)は「二つの空間の分離」すなわち観客がスクリーンと区切られていること、そしてその、それによって十分な強度を持てない現実感のおかげで、我々の目は物語世界(=“ディエジェーズ”)へと向けられ、そこでの「運動」こそは抽象化されがたい現実感を持っており、映画の現実感の源泉とはすなわち「運動」である、と述べている。
すなわち、「動いている」ことは紛れもなく「現実的」なのである。これが映画の前半における世界が現実である、すなわち「リアル」である最大の依り所どころは、すべてが合理的に運動していることだ。
しかし、中盤からいよいよ終盤へ、という時点で突如揺さぶりがかけられる。まず綾瀬はるかが突如運動を止める(そして消える)。センシング終了後のセンシング・ルームの研究者たちも停止している、まるで時が止まったかのように(フドルフ・アルンハイムは映画の現実感は、運動によってもたらされる「時間」にあると述べている)。我々が「リアル」の拠り所としたものが崩れ去り、ここで初めて真実が我々に現前する。すなわちこの世界は「リアル」ではない、と。
もっぱらに賛否両論の的となるのはここからだろう。確かに心肺停止したはずの佐藤健は蘇生し、さらにモリオの権化たる首長竜(この首長竜のクオリティも賛否両論だ)は特に必然性もなく暴れ回り、必然性もなくおとなしくなるなど、かなり強引な展開だ。しかし、たとえ物語ではもう一段階上の「リアル」に到達したからといって、ほんとうにそれは我々が生きる現実と地続きの「リアル」なのだろうか?もちろんスクリーンを我々が隔てられている以上、その答えは「否」なのだが、それにしてもなぜにこのような「ご都合主義」とも取られかねない展開を許したのか。
ここで改めて「フィロソフィカル・ゾンビ」を思い出してみよう。いや「哲学的ゾンビ」を思い出してほしい。哲学的ゾンビは外面上は我々とまったく見分けがつかないどころか細胞レベルまで分解しても心(≒クオリア)を持っていないことを証明できない、しかし「クオリア」を持たない存在のことである。翻って映画の登場人物とは一体何者であろうか。ここで『nobody』誌のインタビューで黒沢清自身が興味深いことを言っているので少し長くなるが引用しよう。
映画で人の心の中を描けないのは当たり前で、意識下と現実とをどう描き分けるんだとか、実際様々な難問が待ち構えている。でもこれ映画ですよね、って。リアルかアンリアルかじゃなくて、映画ですよねって。映画っていうメディアではどう転んでも、ある場所で、ある俳優が演技か何かをやっていて、そこへカメラを向けるわけで、そのことには心の中であれ、意識下であれ、現実であれ、たぶん違いはない。どれが意識下でどれが現実なのか、どれがリアルでどれがアンリアルなのかということは、本当に物語上の話でしかない。物語の上では、シーンによって「これはリアルで、これはアンリアルだ」と区別できるのですが、映画であるシーンが終わると、直結で「次のシーン」がくる、これを何十回か続けて映画は終わる、その原則は不変なわけで、ここに映画の真のリアルがあるということだったんです。わかりますかね?(笑)。
(http://www.nobodymag.com/interview/real/index2.html より引用)
さて、言いたいことをほぼ言い当てられてしまった感があるが、すなわち「映画は映画である」のだ。決して現実の写しなどではない(ドキュメンタリー映画だってそうである)。そして映画の登場人物とは、「俳優そのものの内面」と「俳優が演じる登場人物の内面という」二重の意味での内面を決して我々は見ることのできない存在だ。いや、そもそも登場人物には「内面」などないのかもしれない。
つまるところ、多くの観客が語る「映画の現実感」などというものは非常にあいまいであり、身体を持って躍動する佐藤健も綾瀬はるかも、3DCGによって作られ「チャチ」=現実感に乏しいと指摘を受ける首長竜も押し並べて我々の前では等しく内面の見えない「フィロソフィカル・ゾンビ」に過ぎないのだ。最近(どころでなくここ数十年ずっと)しきりに叫ばれる「リアリティ」に黒沢清は痛烈な一撃を加えたのだ。もちろん物語展開には僕自身も首肯できない部分もあり、声高に「傑作!」と手放しでは誉められない問題作だ。しかしながら、閉塞的といわれて久しい日本映画の展望を窺ううえでも必見である。
P.S.少しばかり蛇足かもしれないが多くの拠り所を見失ったが、もう一度メッツの主張を思い出そう。「映画は運動だ」と。これで少しは救われませんか?(笑)