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『思い出のマーニー』

09 09, 2014
2014年・製作=スタジオジブリ、日本テレビ、電通、博報堂DYMP、ディズニー、三菱商事、東宝、KDDI
制作=スタジオジブリ 配給=東宝
原作=ジョージ・G・ロビンソン
脚本=丹羽圭子、安藤雅司、米林宏昌
作画監督=安藤雅司(作画監督補佐=山下明彦、稲村武志)
美術監督=種田陽平
プロデューサー=西村義明
監督=米林宏昌
声の出演=高月彩良、有村架純、松嶋菜々子、黒木瞳 ほか

 
 実は最初に観たのは1ヶ月以上前だ。そのときに「これは良い!」と思ったのだがどう書いたものやら悩ましく一ヶ月間悶々と考えながら放置していた。ようやく二回目を観て少し考えがまとまってきたので書いてみる。

 まず言わなければならないのは、近年のスタジオジブリ作品に対するフラストレーションが溜まっていたことだ。特に宮崎駿作品は近藤喜文、安藤雅司という、二人の「批判的な眼、あるいは手」を失って具体性を失っていった。作品は猛烈な勢いで抽象化の一途をたどっていった。美術や作画は確かに常に高水準かつ高密度だ。しかしバックグラウンドを欠いた、空虚な高水準作品は、宮崎駿という単一の才能をよりどころとしており、限界と破綻は見えていた。

 その問題が露呈したのが昨年の『風立ちぬ』だろう。大正年間から昭和初期を舞台としながらも、あれを日本だと僕たちは認識できるのか。菜穂子の「結核」の描写に果たして説得力はあったのか。宮崎駿(と作画監督の高坂希太郎)は、結局は「ジブリ的作風」に絡め取られ、「『ファンタジー』にしか見えない『実話ベース』の『ジブリアニメ』」という至極珍妙な作品に仕上がってしまった。

 我ながら非常に回りくどい。間を飛ばして結論だけ書こう。『風立ちぬ』は従来の手法・方法論で作ってはいけない映画だったのだ。大正年間から昭和初期を描くには「ジブリ的なルック(デザイン・作画・背景・特殊効果など多岐に及ぶ)」ではいけなかったのだ。ファンタジーへ逃げることなく真正面から、あの近藤喜文が『火垂るの墓』で行ったような正攻法で突破すべきだったのだ。(出来上がった作品がダメだと言っているわけではない)宮崎駿は「作品に合った作風」を見失っているように感じる。

 ようやく本題。翻って本作だが、欠点を言えばきりがない。種田陽平の美術はフィッティングを考えずむやみやたらに密度が上がってしまっておりセル部分との乖離を生み出しており(おまけに最初に杏奈が洋館に向かって歩く場面では、付けPANが上手く噛み合っていないという悲劇まで起きている)、前作『借りぐらしのアリエッティ』でも見られた、米林監督の生真面目すぎて力の加減を知らぬ丁寧すぎる作劇は最終盤になって冗長に感じるし(これと比べると『風立ちぬ』の飛躍は見事としか言いようがない)、それに付随して、無闇に増えたキャラクターを持てあまし気味だ。
 
 しかしそれでもただ一点を以て自分はこの映画を素晴らしいと思った。この映画は具体性にあふれているのだ。冒頭、札幌から釧路まで伸びる線路をバックにタイトルが出る。この映画には釧路湿原の、それも叔母一家の周辺しか登場しない。しかしその空間の限定がこの空間の具体性を徹底的に底上げしてみせた。分かりやすい話をすれば、叔母の家からマーニーの家までの位置関係を我々は知っている。どこで物語が展開されているかを手に取るように理解が出来る。空間を観客が認知できる、というのはつまり、説明的描写を削ることが出来る。それなりに複雑な物語構造を持つ本作において、空間説明に観客の関心が行かず、よどみのない物語への没入が出来る意味は大きい。

 作画についても従来のジブリ映画との徹底的な差別化を目指し、記号化を避けた具体描写を図っている。安藤のキャラクターデザインはキャラクター一人一人が「やわらかい身体」であることを十分に感じさせ、実写に漸近し過ぎることもない見事なものだ(特に眼球への意識、奥歯の描き方)。作画自体も従来のジブリ的な(Aプロ的な)描写とは異なっている。特に沖浦啓之と本田雄パートはリアル系アニメーターの面目躍如といえるだろう。残念ながら全てに手が行き届いたわけではなく、従来的なエフェクト作画などが見られてしまっているが、作画監督としての安藤の最大の業績はおそらく影付けだ。立体に見せるための影付けではなく明確に光源(太陽、月、電灯...etc)を意識している。光源がわかる、すなわち時間が予想できるということだ。『風立ちぬ』は果たしてどのくらいの年月を経る物語なのか、『ハウル』はいつ頃の季節の物語なのか。本作では空間と時間、この両軸が見事に具体的に、克明に描写されている。
 
 押井守は『イノセンス創作ノート』(2004)で「街という名の街はなくイヌという名の犬はいない」と書いている。実写映画ではかなり制約される記号的表現がアニメでは自由に使え、かつ一種身勝手にいい加減に用いられてきたことに対する皮肉だ。本作は文字通りに「地に足のついた」作品だ。その作品に「飛翔」も「ファンタジー」も不似合いだ。
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