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映画と演劇の正面衝突「ダンシング・チャップリン」

11 19, 2011
監督・構成:周防正行
出演:ルイージ・ボニーノ、草刈民代、ローラン・プティ 他

 フランスの巨匠振付師、ローラン・プティがチャップリンを題材として、ルイージ・ボニーノを唯一無二の主役として迎えて制作したバレエ「ダンシング・チャップリン」(初演・1991年)。それをバレエそのままの形で、「Shall we ダンス?」の周防監督が映画化。
 前半は「アプローチ」と題してクランクインまでの準備期間60日間をドキュメンタリー形式で、後半は「バレエ」と題し、東宝撮影所(+とある公園)で撮影された全13幕のバレエで、という二部形式による上映。

 今作の目的は「このままでは幻の作品になってしまう! と危機感を感じた監督の強い思いから」だそうである。(公式HPより)そして周防監督は「これは僕のバレエ入門である」と豪語し、また草刈民代の引退作としても注目され、作品の宣伝もそれに呼応して、全体的に「バレエ」を全体に押し出した作品となっている。しかしながら、僕が映画を通して見た印象はその宣伝とはまったく別のベクトルに向いてしまった。それどころか、(ここまで書くと少々傲慢な気もするが)監督の意図せざる部分においてとんでもない問題作になってしまったのではないかと思う。それでは早速一部と二部、それぞれについて具体的検証に入っていこう。

第一部-二人の演出家、舞台の映像化-

 この映画には演出家が二人存在する。言うまでもなく一人はこの映画の監督である周防正行、そしてもう一人は「ダンシング・チャップリン」の生みの親であり、今作でも振付師として参加したローラン・プティである。この映画に二人の演出家が存在することを特に意識するのは「二人の警官」の撮影に関してである。周防監督は公園での撮影を提案するがプティは園必要はない、公園で撮影するなら降りると言う。
 結局周防監督はプティの意見を押し切って公園での撮影を行うのだが、周防監督はなぜそれにこだわったのか明確に述べている。「公園と警官と女性が出てくれば映画は成立するとチャップリンは言っていた」と。この発言はやはり周防監督が映画人であることを強く意識させられる。というのもこれは監督が図らずも「バレエ」ではなくそれの元になった「チャップリンの映画」にリスペクトを捧げ、そこに挑戦しようという事の証左だからだ。
 一方、プティは次のように述べる。「最低限の機材で、最高のダンサーが踊るのが一番だ」と。つまり純粋にバレエを見せようと考えているのだ。これはやはりプティ自身が自分が作り上げた「ダンシング・チャップリン」というバレエを立脚点において考えているということであろう。
 一応断っておくが、どちらが正しい、という事は全くない。僕はただ単にこの二人の対立構図はそのまま、バレエの映画化という難題の最も顕著な部分だと思っただけである。しかし更に面白い発言がバレエ側の人間であり唯一無二の主役でもあるルイージ・ボニーノから出る。「肩に力が入ったり、よろめくのは舞台なら観客の記憶には大して残らないけど映像の形では永遠に残ってしまう。もっと安定した形を」と。これは男性ダンサーが草刈民代を持ち上げるシークエンスでの話だが、彼はカメラによる記録を強く意識している。そしてそのために従来のバレエと違ったメソッドを持ち込もうとしている。つまり、もう純粋なバレエではいられない、ということを意識しているのだ。そしてその逆も言うまでもなく然りなのだがその話は第二部の検証に譲る。
 
第二部-映画→バレエ→映画-

 第一部と第二部のインターミッション、僕は後半に対してのモチベーションは決して高くなかった。というか前半があまりにも面白くて後半はどうせ美しいバレエだけだと思っていたのだ。つまり、もう第一部のような目から鱗な印象は得られないだろうと考えていたのだ。しかし、それは大きく裏切れらた。というか周防監督のアプローチが様々な問題点を浮き彫りにしてしまったのだ。
 通常、舞台作品の映画化においては必ず一方向から撮影する。つまり、実際の観客とモニター越しに見る人間を同じ立ち位置に置こうというのだ(実際はピント合わせの問題でどうしても視線誘導に繋がってしまう、という問題があるが今回はその点に関しては目を瞑る)。そして出来る限り舞台全体を楽しめるようにロングショットを多用し、また出来る限りワンカットで撮影をする。つまるところ、舞台の状況を出来るだけ追体験できるように撮影するのだ。
 しかし、周防監督はそうした従来のアプローチを完全に無視した。マルチカム方式により細かく割られたカットとズームの多用、そして確信犯的な視点の移動と、時間の経過を感じさせるフェードイン、フェードアウト。このアプローチは完全に映画の手法である。「黄金狂時代」ではまだ真正面からのカットが多いが次の「二人の警官」では警官が投げたステッキをカメラが追いかけている場面すらある。最も問題なのは「街の灯」である。最初、チャップリン(ボニーノ)と盲目の女性(草刈民代)
が出会う場面。柵越しにチャップリンが歩いてくるショットがある。じっと考えて欲しい。仮に舞台真正面から観客が見ていたとしよう。恐らく柵で観客にはチャップリンの姿はよく見えず彼の細かい動作など全く分らないだろう。この瞬間のカット割、カメラワークは完全に映画である。もはやバレエとは無縁だ。
 このまま行けば、周防監督はバレエを再構成して、矛盾のない一本の映画として作り直そうとしているように見える。しかし、そうは一概に言えない。まず光源を完全に無視している、更に言えばライトの機材が映っている場面すらある。また黒子がはっきりいるにも関わらずその存在は一切無視されている。こうした「見えているが見えていないことにする」という暗黙の了解は演劇の文法だ。
 周防監督は結果として映画の手法を駆使して演劇の文法をも内包した奇妙な映像作品を作り上げてしまったのだ。そんな訳で単なる周防監督の新作というだけでなく色々な意味で存分に楽しめる作品だった。

3,よもやま話
 最後のほうが尻切れトンボになってしまったのは、まとめが全く思いつかなかったからである。よって、「自分はこんな風に見た」という謎の感想文になってしまった。
(以下は思いついたけれど一貫性のある感想が書けそうになかったので省いた部分です。備忘録として一応書いておきます。)
・チャップリン作品はサイレント、そしてバレエに音楽は不可欠、今回の映画はバレエの映画化なので音楽が不可欠。このズレをどう捉えるべきか。
・イタリアで日本人とフランス人が稽古をする奇妙さ。

久し振りに感想らしい感想を書きました。最後に、もっと普通のことを言えば「黄金狂時代」の草刈民代さんが小悪魔的で素敵でした。まあそんな感じ。劇場で映画を見たのも久し振りだったり。
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